善光寺境内で、大道商人や立売りなどが商売をはじめたのは、非常に古いことでありおそらく中世以来、そのような事が行われていたと思われます。
現在の仲見世の場所は、もと善光寺如来堂(金堂)があった場所です。
ただ、この場所にあった如来堂は人家に近く、しばしば火災の難にあったので、元禄7年に境内の北側(現在の場所)へ移転しました。
いままでの如来堂は広い空き地となり、そこへ次第に商人達が集まるようになったといわれております。
例えば、善光寺名物の「八幡屋唐辛子」の本舗 八幡屋磯五郎は、善光寺門前御高札前に露店を出していたそうです。
その他には、見世物小屋、居合抜、熊の油等も売られていたようです。
この頃の商売は、露天商や小屋店のような仮店で行われており、度重なる火災の為か、火の使用を禁じられており、生活するには大きな支障となりました。
また、取り扱う商品等にも規制がありました。
それから明治維新により飛躍的な発展をとげ、仮店の集まりから、常設店舗の町へと変わって行きます。
明治6年、この場所は”元善町”と改称し、次第に各々の生活の根拠をこの町に移しました。
善光寺大震災前の賑わい:弘化四年三月二四日の大震災は開帳中であった。仲見世にはむしろ囲いの見せ物小屋が立ち並んでいた。
明治初期の仲見世通り:明治10年以前、大勧進前から仁王門方面を望む。洋傘の婦人は当時のハイカラさんか。
これにより、善光寺参詣の形態が大きく変化し、善光寺参詣団体が、各府県より沢山訪れるようになりました。
例えば、現「日本旅行」という会社は、善光寺参詣団体からはじまったものです。
その為か、仲見世には参詣団体を受け入れる旅館も多く、その他洋服、即席料理、そば屋、写真師、仏具などを扱うお店がありました。
扱う商品も、日用品から観光商品へと移り変わりはじめ、商店街として発展して行きます。
露天の仁王様:木造黒塗りの仁王さまを仁王門跡に安置。仲見世通りには二階建ても見える。
日支事変初期の仲見世通り:まだ余裕があったが戦とう帽姿が見られる。
戦争と平和の共存:鉄かぶとも店頭にならぶ。えはがきや(現長谷川商店)の店頭風景。
元善町は、本来仲見世として商業を中心として成立し、発展してきましたが、戦時下では参拝者の激減、及び統制経済により、商業活動は壊滅状態であり、戦中と戦後では大きな変貌を遂げました。
長野市が門前町、そして県庁所在地として発展するにつれ、商業活動の中心は長野駅方面へと移動し、元善町(仲見世)は本来の門前町の機能である参拝者観光客のサービスを主とする業種が中心となって行きます。
また、高度経済成長の波に乗り、沢山の参拝者を迎える事となります。
交通の発展に伴い、善光寺本堂の脇にも駐車場が整備され、大型バスやマイカーでの参拝も受け入れられるようになりました。
改装すすむ仲見世通り:経済の高度成長の波に乗って、大量の参拝客を迎える商店も改装工事が進められる。
団体客を迎える仲店通り:店の前には講中歓迎の立て看板が立つ。
参考文献
「善光寺門前町百年の歩み」 長野市 元善町誌 昭和五十五年三月二十日 発行